流山に行ってきました。すぐ近くなのだけどなかなか行く機会がなくやっとという感じです。298号経由で、草加の手前から混み始めて三郷付近では、ほとんど動かず。2輪だけど、すり抜けは怖くてできません。路肩には何が落ちているかわからないし、足もしっかり着かないので、ジグザグに進路を取るのは無理なんです。
渋滞で遅れようが誰も待っていないし、予定変更も自由、ソロツーのいいとこであります。ノロノロでなんとか67号で左折して渋滞を抜けました。水分補給、そしてルート確認のためコンビニに立ち寄り少し休憩。
以前日野市で行われた新選組のイベントでお世話になった村瀬さんの本。土方歳三が語る小説形式で、資料性もあります。すでに絶版ですが読み応えがありました。
ここから、流山寺→光明院→流山浅間神社→秋元→近藤勇陣屋跡の順で巡ります。まず、流山寺からですが、休憩したローソン三郷天神1丁目店から5キロくらいの距離なので、10分くらいだと思います。
Googleのルート案内で江戸川を渡ってすぐ左折して土手沿いの道に入れと支持されましたが、ちょっと不安でそのまま直進。遠回りして逆側から土手沿いの道に入りました。
流山寺は土手沿いの道から少し入った所にあり、一度目は曲がるところを見逃して、再度チャレンジしたのが下の動画です。もし、バイクで行く人がいたら役に立つかなと思い残しました。
ただし、このあたりは、すごく道が狭くて時間帯によっては進入禁止も多く、電車でのアクセスがお勧めです。
少し遠回りしたものの無事に流山寺に到着しました。流山寺は江戸時代に建てられた曹洞宗の寺院で、火災で再建された本堂は下の写真のとおりです。本堂前に駐車スペースがあります。お寺の方はお留守でしたので、本堂も閉まっており外からお参りを済ませ、大黒天像の写真などを撮って帰ろうとしたら、たまたまお庭でお仕事をしていた方が、こっちの写真も撮らないとと・・・トラックには中山ガーデン建設と書かれていました。
流山寺のことは地元の紹介サイトでは流山七福神の大黒天のこと以外、紹介されていなかったのですが、大川斗囿の「名月やいづれの用にたつけぶり」の句碑があります。「名月」の「名」の左に大きく欠けた部分が太平洋戦争の空襲で被弾した傷痕で、この弾痕は平和の句碑としても長くに残されるでしょう。
流山は一茶ゆかりの地でもあり、大川斗囿の父は油平という大きな油商で経済的にも一茶を支えたと言われています。斗囿は父の手ほどきを受けて俳道に入り、父が亡くなると栢日庵と家業を継ぎ、父と親交のあった一茶の指導を受け、文化、文政、天保の時代に北総俳壇で頭角を現したようです。天保2年に流山の門人らによって、この句碑が建立されたとのこと。約200年前ですね。
流山寺は、流山七福神の大黒天の寺でもあります。本堂前の大黒天像。台座には甲子と書かれています。福槌を持ち、米俵を踏まえ、貯金袋を担ぎ、和顔愛語を忘れず、与えて惜しまぬ大きな腹で、身を低くしてお陰様の頭巾をかぶり、日々の感謝に生きる人は福徳を授かるかもしれません。
進入方向からの写真です。道が狭く住宅街なので、重ねて電車での参詣がよいと思います。
流山寺から左方向にまっすぐに行くと100メートルほどで光明院です。バイクなら入れそうでしたが、駐車場の場所も確認していたので門前を通り過ぎて駐車場まで行って歩きで戻りました。
本堂に新選組隊士分宿の寺とありました。200数十名が流山に転陣したとありますから、近隣の寺の多くは分宿だったのでしょう。右側は一茶ゆかりの寺と書かれていました。
光明院もお留守のようでした。イベントのない休日はお寺もご不在の場合が多いです。私は朱印帳は持参すれども、特別御朱印集めをしているわけではないので、またの機会ができたくらいに考えています。
丹後の渡し跡と、参詣予定だった流山浅間神社は駐輪場の確保ができなかったので、こちらもまたの機会に。
光明院の駐車場は、砂利です。バイクは入口の近くに置いたものの、ちょっと疲労してることもあって取り回しが大変でした。倒したらもっと大変なことになるので、いつも慎重です。
流山浅間神社に寄ってから、流山本陣跡の予定でしたが、流山浅間神社は、駐車場がなく、神社前の道も交通量が多く、路肩も狭くて止めるスペースがないので、通過するだけにしました。Uターンして再度土手沿いの道経由で、本日の最終目的地流山本陣跡に向かいます。
江戸川の土手沿いの道から3回右折して石畳の道に入りました。大変な狭路ですが、バイクであればこの経路で秋元の前を通って、道の状況によっては、本陣跡に横付けできます。ほんの2,3分ですがら、邪魔にならないようにピッタリ付けて近藤勇陣屋跡の石碑をバックに記念撮影。この一枚、エストレヤが融和しています。
最後に簡単に歴史の復習です。
新選組は、慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に破れ海路にて江戸に戻り、同年3月甲陽鎮撫隊を結成して甲府入城を目指して出陣するも、到着する前に甲府城は新政府軍の手に落ち、柏尾山で布陣した甲陽鎮撫隊は新政府軍に大敗します。このあと、永倉新八、原田左之助が近藤と袂を分かち、新選組発足時の幹部は、近藤、土方、斎藤一の3名だけになります。
3月中旬に五兵衛新田(西綾瀬)の金子邸に屯集しは400名ほどになっていました。3月15日の江戸城総攻撃の直前に、勝と西郷が会談をはじめ無血開城の方向へ向かいます。
新選組は4月1日に200数十名が流山に転陣しました。下総鎮撫隊を組織して流山での再挙を図っていたわけです。酒造家長岡屋を本陣とし、流山寺、光明院など近隣の分宿として、その本陣跡がここで、秋元の敷地内にあります。
4月3日に薩摩の有馬藤太の指揮する新政府軍に長岡屋が包囲され、近藤は事情説明のため大久保大和として投降します。有馬はこのとき、まだ大久保大和が近藤であることを知らず共に東征軍本営のある越谷宿に向かいました。
その後、近藤は板橋に送られ4月25日に刑死します。有馬藤太は近藤の斬首に強く反対していましたが、土佐の新選組への恨みは深く有馬が不在のうちに処刑されてしまいます。近藤と別れた土方歳三は国分台の大鳥圭介に合流します。
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