宍道湖の夕陽

宍道湖に来るのは2度目。最初は高校2年の夏休みに初めての一人旅をしたとき。それから何年経ったかって。そうとう経ってるのは確かです。夕陽スポットっていうのがあって、ここに三脚持ったたくさんの人がぞろぞろと集まってくる。

私もその一人であります。袖師地蔵と嫁ヶ島の間に日が落ちるのがベストスポットらしく、その位置はかなり前から陣取っているカルチャーセンターの団体さんにすっかりおさえられてしまった。

夕陽が海に沈むまでまだ30分以上あります。空は雲が多くときどき夕陽が雲の中に隠れるとはいえ、ずーと逆光にさらされていると、目がおかしくなりそうなので、少し近くを散策することにしました。そもそもこの地蔵さんはいったいなんなんだ。

江戸初期(寛永年間)に、後方の円成寺山(えんじょうじやま)の麓、宍道湖岸の袖師ヶ浦に立てられた。その昔、嫁ヶ島沖は難所であってここを通過する船はたびたび遭難し、この水難者を供養するために建てられたと伝えられている。
手前の袖師地蔵(地元の来待石製)に寄り添うように建っているのが石灰地蔵(御影石製)である。江戸末期に、南雲市大東町在住の人によって建てられたもので、宍道湖で採れるしじみ貝から石灰を作る所(後方の浜乃木附近)の横にあったので石灰地蔵と名付けられたらしい。
明治中頃、袖師ヶ浦の袖師地蔵の隣に移転し、またこの付近一帯の湖岸埋立により、昭和四十七年秋そろって現在の位置に据えられた。現在の袖師地蔵は平成五年秋に新しく建立されたものである。

嫁ヶ島の由来
宍道湖に浮かぶ唯一の島で、東西に長く、全長一一〇m、幅約三〇m、周囲二四〇mの扁平な形をしています。
島の西側には弁天様を祀る竹生神社の小祠があり、東端には鳥居もあって三〇本ばかり

の松が風情をそえています。
昔は、もっとすくなかったのですが、昭和の初め松江出身の総理大臣、若槻禮次郎が苗木を寄贈し、多くなりました。
奈良時代にできた「出雲風土記」には蚊島とあり、いつのころから、これに可憐な嫁島の字があてられ、悲運の若妻の伝説も加わり、嫁ヶ島の呼び名になったといわれています。
(下記写真の松江観光協会の石碑より引用)

 

それにしても同一の石碑に書かれた文章でありながら、袖師地蔵については「である調」で、嫁ヶ島については「ですます調」というのは、なんで?職業柄こういうのすごく気になってしまうのです。そうこうしているうちに、いよいよ夕陽が水辺線に近づいてきた。海に沈む夕陽と違ってやさしさはあるものの、沈みきるまで見ているのは気が滅入るのは、なぜかな。あいにくきょうは、雲がかかっていて、これより下は陽が雲に隠れてしまい、湖に沈むところを観ることはできなかった。

Sunset of Shinji lake

カメラのファインダーやモニターで観るより、自分の目で観て記憶に残る景色が好きだ。とはいえ、いままさにシャッターの音が鳴りやまないのもしかたない。多くの人々はデジカメのデータでこの風景を残すことで安心してしまう。でも、夕陽が沈む一瞬のその時間は二度と戻ってはこない。もちろん明日も太陽は昇り明日も太陽は沈む。その繰り返しのただ1日に過ぎないじゃないかといえばそれまでだが、人生の過ぎ去った一瞬に何を思ったのか。思い出としてアルバムに残すことは簡単だが、それがいったい何になるのだろう。人生は考えるとおもしろいと言った故池田晶子さんの言葉を思い出すのであった。